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赤木智弘さんの「セクハラ問題」の論評が凄すぎ!「自分もこういう記事を書けるようになりて―!」と思った話

記事紹介です。

タイトルにあるように、お茶の間で話題となっている、そしてあっという間に忘れ去られそうな、今ホットな話題である「二つのセクハラ問題」について論じた、フリーライターの赤木智弘さんの記事を読んで感動したので、ご紹介します。

こういう頭が良い人が、いかにも書きそうな記事を、自分も書けるようになって「アキラって頭いいんだな」とみんなに思われたい、そういう話です。

赤木智弘の凄い記事

今回読んだ記事はこれです。

人はみな性的な目で見られている
http://blogos.com/outline/293756/

ブロゴスで見つけました。

「財務省の福田前事務次官による女性記者へのセクハラ疑惑」と、「TOKIOの山口達也氏による未成年女性タレントへのセクハラ」という、2つのセクハラ問題を取り上げ、論評しています。

今回のセクハラ問題について、私が知り得る限り、ダントツの「深掘り感」がありましたね。読んで納得感がスゴイ!

記事の要旨

内容について、詳しくはリンク先で全文を読んで欲しいのですが、簡単にまとめると、

セクハラ問題をちゃんと論じるには、「人間は第二次性徴を迎えれば性的な存在とみなされることから逃れ得ないという事実を認識すること」から始めるべき。ここを認識せずに、変なこと言ってる人が多いのは残念だ

みたいな感じです。

記事では、今回のセクハラ問題から入って、個別の事象の分析にとどまらず、人の性(さが)にまで遡って論じているので、私は読んでいて、キリストの「目で姦淫」うんぬんの話まで思い出しました。

そういう意味で、読者にたくさんの情報を想起させる、大変「抽象度」の高い、質の高い記事だと思います。

特に気に入ってるところ

筒井康隆氏や勝部元気氏を、バッサリと批判するところも、エキサイティングなんですけど、やっぱり赤木さんの自説部分が一番グッときますね。

少し長いですが引用させていただきます。
「セクハラ問題では、本質的には何を論じるべきか」という箇所です。

結局のところ「ある少数のおかしな誰かがセクハラをする」のではなく「自分を含めて、すべての人間はセクハラをする可能性がある」と考えなければ、セクハラ問題を解消する話はスタートできないのである。

僕を含め、すべての人は他人を性的な目で見ているし、性的な目で見られている。それが前提である。

自分だけをそうした場から外して、人間のルールと別のところにいる神であるかのように人間を審判するような主張は無効である。そのような人たちに、セクハラ問題を真正面から論じることは決してできないだろう。

くっ~~~。カッコ良すぎるぜ、赤木智弘。

ブロガー視点で分析すると

その他ブロガー視点から、記事で凄いと思ったところを挙げてみます。

・記事の冒頭で、事件の経緯を端的に説明。まず何の話か分かりやすい。
・当事者が認めているか否かで、「セクハラ疑惑」と「セクハラ」を使い分けてる。細かい表現まで気を配っている。
・ネットで話題となっている「女性の対応の是非」についても、この記事の本題ではないものの、無視するのではなく、「女性の対応は立派だ」とさらりと触れている。
・「セクハラ問題の論じられ方」という問題の切り口で勝負あり。
・「ミソジニー(女性嫌悪)」「トロフィーワイフ」「ロリコンクライム」といったワードで読者の知識吸収欲を満たす

これを無料で読めるってすごい時代です。

記事を読んでここまで感心した記憶は、新聞記事ではありません。
東京新聞のコラムで、金原ひとみさんの「男はウンコを拭き残せ(要約)」を読んだときぐらいでしょうか。

赤木さんは、この記事をどれくらいの時間で書きあげたのか気になります。

まとめ

ブロガーを目指すものとして、赤木智弘の書いた文章を読んで勉強しなきゃと思いました。

著書もあるようですが、とりあえずブログ記事を読みまくろうと思います。

「希望は戦争」ならぬ、「希望は赤城智弘」ってもんですよ。

編集後記

赤木さんの記事を「構造分析」しようと試みるも、引用部分が長くなりすぎて失敗。そこの部分は全カットした。

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